LOGIN翌日、蓮は鷹宮邸の会議室へ来た。
スーツを着ると、旅館で見た時より年上に見える。机へ置いた鞄から、厚い訴訟記録を二冊取り出した。「榊原系列の施設で、同じ薬剤名が出ています」 一件は高齢者施設。もう一件は、難病患者を受け入れる療養病棟。どちらも投薬記録の一部が空白になり、患者は夜間に急変していた。「裁判にはなったんですか」「和解で終わった。遺族には守秘義務がついてる」 蓮が記録を開く。黒く塗られた箇所ばかりで、読める言葉は少ない。 それでも、薬剤搬送を担当した会社名だけは残っていた。 高城運送。「親父の会社が使われた。荷物の中身は知らされていなかった」 彼は自分の父を庇う言い方をしなかった。分からなかったことと、確認しなかった責任を分けて話す。 彩花さんが一枚の表を重ねた。「研究棟から出た数量と、施設へ入った数量が合いません。途中で別の荷物に載せ替えています」 二人の指が同じ数字を示した。 私は母の帳簿を開き、該当榊原紗英から面会の申し入れが来た。 場所は、財団本部の応接室ではなく、鷹宮ホテルのラウンジを指定している。人目のある場所を選んだのは、警戒しているからか、見せたい相手がいるからか。 紗英は白いスーツで現れた。 聴聞室の廊下に立っていた女性と同じだった。髪を低い位置でまとめ、宝石は小さなものしかつけていない。莉々花の華やかさとは違う。目立たないよう整えた人ほど、周囲の視線を集めることがある。「お久しぶりです、征臣さん」 聞き慣れているはずの呼び方なのに、紗英の口から出ると別の音に聞こえた。膝の上で組んでいた指を、無意識に組み直す。 征臣は立ち上がらなかった。「用件を」 それだけだった。懐かしさも苛立ちも声には出ない。その無愛想さに安心した自分を認めるのが嫌で、私は先に紗英へ視線を戻した。 紗英は私を見た。「初めまして、白鳥澪さん。お母様には、昔お世話になりました」「録音に残っていました」 彼女の笑みが、ほんの少し薄くなる。「……そこまで残っているんですね」 紗英は母と会っていたことを認めた。ただし、研究不正を止めるために説得していたのだという。「菜月さんは体調を崩されていました。数字を結びつけすぎて、周囲を疑っていた」「母が間違っていたと?」「病気の方には、そういうこともあります」 柔らかい言葉だった。 母を嘘つきにした人たちも、同じ声を使った。 私は指輪へ触れず、紗英を見た。「では、四十七秒を削ったのは誰ですか」「存じません」「榊原家の車が、録音のあと宿へ向かった理由は?」「父の秘書に確認します」 返事は早い。それ以上は何も話さない。 紗英は紅茶へ口をつけ、征臣へ視線を移した。「あなたまで、このような調査に深入りするとは思いませんでした」「君に許可を求めた覚えはない」「以前なら、鷹宮家の損失を先に考えたでしょう」 以前。 その一言だけが、私の知らない二人の時間を示し
二つ目のファイルは音声だった。 再生すると、空調の低い音が流れた。しばらくして、母の咳が聞こえる。 私は反射的に停止ボタンを押した。 会議室の誰も動かなかった。「少しだけ、待ってください」 水を飲んでも、喉の奥の乾きは消えない。病室の扉の前で、母の咳が止むのを待っていた頃を思い出す。入れば心配させる。入らなければ会えない。いつも決められないまま、面会時間が短くなった。 もう一度再生した。 母は誰かと話している。 〈この数字は寄付ではありません。患者の数でしょう〉 男の声が答えるが、波形だけが残り、音は削られていた。 〈澪には関係ありません。あの子の名前を使わないで〉 再び無音。 四十七秒後、別の女性の声が入る。 〈菜月さん、今ならまだ、間違いだったことにできます〉 彩花さんが顔を上げた。「紗英さんです」 征臣の表情は変わらなかった。ただ、机の上で組んだ手に力が入る。 録音の最後、母が小さく笑った。 〈間違いだったことにしたいのは、私ではないでしょう〉 そこで音声は切れた。 四十七秒の空白には、編集の痕跡がある。元のデータから特定部分だけが抜かれていた。「復元できますか」「一部なら」 解析担当者が答える。 削った人は、母と話していた男の声を隠したかった。紗英の声は残しても構わないと思ったのかもしれない。 蓮が録音時刻を事故記録と照合する。「この三時間後、榊原の車が宿へ来てる」 私はヘッドホンを外した。 耳の奥に、母の咳だけが残る。 征臣が手を伸ばしかけ、途中で止めた。私はその手を見てから、自分の指を重ねた。 ほんの少し触れただけで、彼の手が固まった。「続けます」 私が言うと、今度は手を引かなかった。 解析担当者が波形を拡大すると、無音部分にも微かな振動が残っていた。完全に消したのではなく、別の音を重ねている。 一定の間隔で、金属が触れる音がする。「
復元された最初のファイルは、文章の途中から始まっていた。 件名も宛先もない。母の名前だけが末尾に残っている。 私は画面を拡大した。 〈慈善事業名義の薬剤搬送について、外部監査を求めます〉 その下には、白鳥家と有馬家の関連会社、療養施設、榊原医療財団の研究棟が並んでいた。 母は寄付金の横流しだけを調べていたのではない。 患者の同意を得ずに薬剤を投与し、体調変化を研究記録へ転用している疑いがある。そう書かれている。「人体実験、ということですか」 口にした声が遠く聞こえた。 彩花さんが唇を結ぶ。「正式な治験ではありません。だから記録上は、補助的な投薬や緩和処置として処理された」 画面の右端に、イニシャルがあった。 S・S。 榊原宗一郎か、榊原紗英か。 征臣がファイルの作成日時を確認する。母が亡くなる五日前だった。「送信されていない」 下書きのまま保存され、宛先欄だけが削除されている。 蓮が椅子から立った。「親父が菜月さんを宿から運んだのは、この翌日だ」 告発原稿を外へ出すために、母は動いていた。 けれど、どこへ送るつもりだったのか分からない。 私は末尾まで読み進めた。 〈私の娘が、この件によって不利益を受けることを望みません。白鳥澪は、本件に関与していません〉 母は最後まで、私を外へ出そうとしていた。 守られたことが嬉しいとは思えなかった。母の世界から切り離され、何も知らないまま残された時間もある。「どうして、私に話してくれなかったんでしょう」 誰に答えを求めたわけでもない。 蓮が口を開きかけ、やめた。 征臣も何も言わない。 画面には、削除された宛先の痕跡が一文字だけ残っていた。 K。 それが人の名前なのか、組織の頭文字なのか。母が最後に頼ろうとした相手は、まだ見えなかった。 原稿の下部には、削除された添付ファイル名が残っていた。患者一覧、薬剤搬送表、同意書写し。三つ目だけ、ファイル名の
彩花さんが正式に調査チームへ加わった。 相沢は守秘義務の説明をし、蓮は被害者側の同意書を揃え、征臣の秘書は連絡先を暗号化した端末へ移した。私は母の帳簿を机の中央に置いた。 以前は、誰かに見せるたび奪われる気がした。 今はページを開き、必要な箇所を自分から示す。「この青い印は、母が注意を促す時に使っていました。丸は確認済み、二重丸は原本あり。斜線は、数字が合わない時です」 彩花さんがメモを取る。「この三角は?」「分かりません」 分からないと言えることが、少し楽だった。白鳥家では、分からないと答えれば準備不足を責められた。だから何でも分かった顔をして、最後には誰かの望む答えを選んだ。 蓮が別の帳簿を重ねる。「高城運送の記録では、三角の日だけ運転手が変更されてる」 運転手欄は空白になっていた。「内部の人間が車を使った可能性があります」 彩花さんの声が硬くなる。 榊原側の職員が、外部業者の車へ乗り換え、薬を運んだ。その形なら、研究棟の正式な搬出記録には残らない。 昼を過ぎても誰も席を立たなかった。秘書が軽食を運び、蓮は私の前へ昔好きだったという卵サンドを置く。征臣は黙って、私が苦手な辛いソースを別の皿へ移した。「二人とも、覚えすぎです」 言うと、彩花さんが初めて声を立てて笑った。 笑いが収まった頃、彼女の端末に警告が出た。 財団の旧サーバーへ接続した形跡が検知されたという。アクセス元は、白鳥家が契約していた会計事務所だった。 父が榊原に利用されていたのか。 それとも、最初から一緒だったのか。 私は帳簿の三角へ赤い付箋を貼った。 怖さは残っていた。付箋を貼る指も少し固い。それでも次のページはめくれた。 午後、白鳥家から私物の返還リストが届いた。父の署名はなく、瀬里奈さんの代理人名だけがある。母の裁縫箱、古い衣類、学校時代のアルバム。どれも「価値なし」と備考に書かれていた。「『価値なし』って、誰が決めたんですか」 彩花さんが言う。 彼女は私の返事を待た
会議が終わったあと、征臣は珍しく資料を片づけなかった。 榊原紗英の名前が表示された画面を見たまま、指先で机を一度叩く。「何か思い当たることがありますか」「彼女は医師でも薬剤師でもない。薬剤そのものを管理する資格はない」 財団理事長の娘として研究部門の事務統括を務め、搬送記録と書庫の承認権限を持っていた時期があるらしい。資格者ではなくても、現場へ出入りし、書類上の流れを変えられる立場だった。 蓮が椅子を引いた。「昔の婚約候補が、澪ちゃんの母親の件に関わっていた。随分と都合がいいな」「言い方に気をつけろ」 征臣の声が低くなる。「何に? 婚約候補に? それとも澪ちゃんに?」 空気が張った。 私は二人の間へ立たなかった。以前なら、場を丸くするために先に謝っていたと思う。今は自分の資料を集め、二人が黙るのを待った。「資料が進みません。続けるなら、私のいないところでお願いします」 蓮が口を閉じる。 征臣は視線を外し、短く息を吐いた。「悪かった」 謝ったのは征臣だけだった。蓮は少し遅れて、机の上のペンを元の位置へ戻した。「俺も悪かった。……でも、そっちも言葉足りないだろ」「君に言われたくはない」「そこは否定しない」 また始まりそうになり、彩花さんが資料を一冊閉じた。「その続き、私が帰ってからにしてください。仕事になりません」 思わず笑いそうになる。誰かと一緒に調べるとは、こういうことなのかもしれない。苛立つ人も、冗談を言う人も、それを止める人もいる。 蓮が帰ったあと、征臣は窓際に立った。「面白くない」「何がですか」「君が、あの男の前では昔の顔をする」 私は驚いて彼を見る。「どんな顔ですか」「俺が知らない顔だ」 征臣自身も、口にしてから困ったらしい。視線を窓へ戻した。 嫉妬は、もっと激しいものだと思っていた。実際には、言い過ぎた人が行き場をなくして立っているだけだった。
最初の遺族に会えたのは、三日後だった。 郊外の小さな喫茶店。窓際の席で待っていた女性は、母と同じくらいの年齢に見えた。 名前は出さない。録音もしない。それが条件だった。「父は、夜になると眠れない人でした」 彼女は冷めた紅茶へ砂糖を入れ続けた。「でも亡くなる一週間前から、面会中でも眠るようになった。施設は、体力が落ちたからだと言いました」 投薬表には鎮静剤の記載がない。 けれど、枕元のごみ箱から、名前のない薬包が見つかった。彼女は一つだけ持ち帰り、弁護士へ渡したという。 蓮が封筒を机へ置く。 分析結果には、母の診断書の余白に残っていたものと同じ成分名があった。 私は紙を見たまま、息を整えた。「お父様は、その薬を希望していましたか」 女性は首を振った。「薬が変わったことも知らなかったと思います」 知らないまま、眠らされた。 母もそうだったのかもしれない。 胸の奥で言葉が形になりかけ、口に出す前に崩れた。征臣は隣にいたが、手を伸ばさなかった。代わりに、水のグラスを私の見える場所へ置いた。 女性は私の左手を見た。母の指輪に気づいたらしい。「菜月さんの娘さんですか」「……娘です」「父が、あの人のことを話していました。病室を一つずつ回って、名前を聞いてくれたって」 母が知らない誰かの病室にいた。 病気の自分より先に、ほかの人の名前を聞いていた。「父は、番号で呼ばれるのが嫌いでした。菜月さんだけが、最後まで名前で呼んだそうです」 女性は砂糖を入れる手を止めた。「だから、私も話します」 録音しない約束だった。それでも彼女の言葉は、帳簿の数字より重く残った。 店を出ると、雨が降り始めていた。 蓮が傘を開く前に、征臣の傘が私の頭上へ来た。 今度は骨が一本も曲がっていなかった。 女性は帰り際、封筒から一枚の写真を出した。 ベッドの脇で、父親が小さな鉢植えを持っている。隣に立つ母は、病衣の